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umekyuu
      故郷「駒止のふもと」に生きて

           
第53回 福島県文学賞 小説・ノンフィクション部門 準賞

                  
南会津町針生  湯田梅久
umekyuu
                目 次

    序 言          

一、幼年時代


幼年期
小学校期
学校生活のこと
子供の病気のこと
高等小学校時代
青年学校時代
家業に就く
祖父竹蔵の造林熱
青年会入会
父の病気
歳の神のこと 

二、戦時出征のこと


徴兵検査と入隊 

太平洋戦争
二度の入院療養
三年兵から五年兵へ
中支へ移動
ソ連軍の進駐
シベリアでの収容所生活
帰国     

 

三、復員後の生活


七年ぶりの就農
祖父の石碑建立
スキー民宿へ転身
       


四、私の老後

植林への情熱
思い出の中に…

     

Umekyuu Yuda

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故郷「駒止のふもと」に生きて
     

                                                           湯田梅久
 

    言

   私たち人間は、両親あってこの世に生を享け、父母の慈愛につつまれて成長してきたことは、今更言をまたない。だが、かく感じるには幾歳を経、遅ればせながら、いま齢八十歳になり、初めてわが人生に、しみじみ感謝の念にひたるようになった。先祖、父母の私に対するささやかな期待にもこたえられず、誠に父母をはじめ、ご先祖様に申し訳なく心より詫びる次第である。

 父母、祖父母、曾祖父母等あっての私である。先祖様は、食べるもの、着るもの、履くものみなボロをまとい、朝暗いうちから、夕方薄暗くなるまで、時によっては夜業までして、寸暇を惜しんで働いた。そして歳老い土に還っていった。この先祖様の苦労を偲ぶ時、只々感謝の念で一杯である。

 栄養云々をいう現世とは、およそかけ離れた貧しい生活。昔は労働賃金が余りにも安く、その割には物価が高かった。粗食のうえに重労働を強いられる結果、「人生わずか五十年」といわれた時代を、汗水流して働き土に還っていった祖先を偲べば、時代とはいいながら、誠に哀れというほかはない。私達が現在の恵まれた世を見、土に還れることは限りなく幸せなことであり、誠に有難く只々感謝するのみである。

 今の世は、年老いても何がしかの小遣いを もらい、金銭に不自由することもなく、健康を害して病院にいっても少いお金で診ていただき、ホームヘルパー、デイサービス、果ては特別老人ホーム等、昔では夢にさえ思ってみることの出来ないような有難い世のなかである。それも、これも平和だからであり、日本の繁栄があればこそである。 今の世の中と、戦前・戦中・戦後を比べ思えば夢のようである。せめて今の心境を、過ぎこし昔を振り返りながら、父母、先祖、隣近所の人達、そして故郷「駒止のふもと」針生の自然に感謝しながら、かすかな記憶を辿ってみたい。

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                一、幼年時代    
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  幼年期

 私は大正九年二月二十六日 父梅義、母タケの次男としてこの世に生を享けた。後で聞いたことだが、長男梅雄は生後間もなく亡くなった由である。

 私の、幼い頃の最も古い記憶は、大正十二年九月の東京大震災の時、火棚のカギ竿がブ ランブランと揺れ、神棚からダルマが転げ落ちた時、祖母マツオがオメエ(家の一番広い部屋)で「万歳楽万歳楽桑原桑原」と唱えている姿が忘れられない。 姉マツヲと父母に連れられ、七ヶ嶽の中腹にある笹葺きで周りの囲いも笹でできた杓子小屋に行ったことがある。小屋の中には、細長いヰロリがあり、祖父・父・初義兄の三人で暖をとっていた。水も樋よりチョロチョロ流れていた。 後から聞いた話だが、杓子の値段は安かった。朝暗いうちから、夜はランプの下で十時、十一時までの夜業が当たり前のことだったらしい。ヰロリの上には大きな棚があり、暖をとりながら荒型を乾燥していた。

 ある夜近くで火事があり、星繁・星政吉・星庄五郎・星甚三・星新の各氏宅が類焼した。私は、生まれてはじめて火事を見た。この時は梅次郎兄におんぶされて見に行った。  祖父と一緒に熊の皮に寝た時は、体がチク チクして痛かったが、今考えると、丸裸で寝ていたのでそう感じたのであろう。 ハヤ婆(祖父竹蔵の姉)の長男政雄兄が入 営するので、よばれてゆき、ハヤ婆の親戚のおおぜいの子供達と遊んだ記憶もある。その時、星文蔵兄・星政義兄も入営が一緒だった。入営の各家々で入り口に芯松を立て、しめ縄を張り、左側には藁で作ったカエルを白い綿で覆い、大事そうに置かれていた。カエルの目玉は盃に黒く書いてあった。後で知ったことだが、無事に帰ってきてほしいとの願いをこめてのことであったという。  その当時は、風呂は各家にあっても毎晩沸かして入浴することはなく、隣近所で交替交替での貰い風呂だった。私は、よく祖母に連れられて宮下の喜四郎叔父宅に行ったものだ。この家は祖母の実家であり、宮下の家でもキシノ・キソ子を連れてよく私の家にもきたものである。タテカエシ(汲み替えないで二度沸かしすること)といって二晩同じ湯だった。 アンドンは四角、六角もあった。どの家のアンドンにも「こんばんは、火の用心」とそれぞれの家印が書いてあった。たとえ ば私の家なら  と書いてある如くである。電線が各家に引かれ、電燈がつくようになっても、大ていの家で十燭電球一ツだけで、メートル器を取り付けたのは 商店と木工場経営の傳吾爺(今の阿久津義道氏)の二軒だけだった。

 祝言の時などは、電気会社に申請して、臨時配線の許可を取って電球を増やした。工場などへは日中でも送電されたが、各家庭へは夕方から、翌朝までしか送電されなかった。したがって、ほとんどアンドン・チョウチン、それにランプでの生活であった。 食事はどこの家でもカテ(糧)飯が普通で、冬は大根葉・カブ菜の干葉を入れたご飯だった。肉などは、野ウサギを罠で取った時か、狩人よりウサギを買ってきて食べるくらいで、それも一年に二、三回ぐらいであった。店か ら買うものは、塩・砂糖・油・石油・タバコくらいで、生菓子・ようかん・ラクガン・一里玉(飴玉)・缶詰等もあったが、甘いものなどは正月・盆・鎮守の祭りでもなければ口にはできなかった。 当時石油は一斗缶で買い、ブリキ製のポンプで小出しにして使った。ランプは精々三分芯で五分芯などは人寄せのときか、秋の夜業のスルス挽きの時くらいしか使わなかった。外に豆ランプといって周囲がホンノリ見える程度の小さなランプもあった。

 私の幼少の頃は、習い芝居が盛んで、祖父・父の親子で「安倍の貞任・宗任」の芝居を元大宮村(現南郷村)の大宮座で上演した時の記念写真もあり、いまだに大切にとってある。昔は、冬になり雪が積って戸外の仕事が出来なくなると、皆一ヶ月も習い芝居の練習に没頭し、その仕上げとして公演し、郷中の人々に見てもらったものらしい。若い者でも、芝居の好きな者は、浄瑠璃本を常に傍らにおい て暗誦し、練習に励んでいたらしい。

 昔、今の均君宅(故菊市兄)で習い芝居の披露があったが、その折私の祖父は、入口に広げた出店の菓子を全部買上げ、大声で褒め口上を述べながら、買い上げた菓子を観衆にばらまいた。芝居の大好きな祖父は、芝居のある度に、こうして菓子をばらまくことを無上の楽しみとしていたようであった。
 
 私の家には大きな水車があった。中には四ツの石臼があり、これで精米をしていた。水 車の軸に差す油は水油で、油を差すところをよく見ていた。冬は水が少なく水路が凍ってしまうので、水車は休業だった。精米が仕上がると祖母が一升マスで、一ツ一ツ、二ツ二ツ、三ツ三ツと声を出して計っている姿を思い出す。水車小屋は粗末な土蔵作りで、入口のヒサシ共に草屋根だった。後年取り壊す時見ると、棟木に「明治三十六年十月吉日  湯田竹蔵  元山湯田辰作」とあった。この小屋を建てる時は、秋遅く、霜の降りる節の普請 で、壁が凍みないように中で火を燃やしたと祖母が話していた。

 家の縁側で家内中で写真を撮ったが、これが生まれて初めての写真だった。撮影は田島の三光館だった。  田島の祇園祭には祖父に連れられて行き、弁天座裏(今の大丸商店の裏)でサーカスをやっていたのを見た。印象に残っているのは、飛行機であった。中心に据えられた鉄棒に環でつながっていて、エンジンをかけると、ユ ックリ上まであがり、又ユックリ降りてきた。また、ヒタイで五寸釘を厚い板に打ち抜く業もあった。  当時田島の町並みは、殆ど草屋根であった。

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  小学校期

 私が尋常小学校に入学したのは大正十五年四月で、同級生は、男十三人、女七人の計二十人であった。当時は複式学級で、担任の先生は、一・二年が山田顕雄先生、三・四年は舟木先生、五・六年室井D先生だった。一 年の途中、田島より今泉マキ先生が来られ 一・二年担任で唱歌の時間を受け持ってくれた。マキ先生は、私家の二階で自炊しておられた。 小学一年生の途中で(十二月)大正から、昭和と元号が替わり、昭和の御代となる。D治先生に「今日は、大正天皇が崩御されたので大声で笑ったり、唱歌を唄ってはいけない」と注意されたことを思い出す。

 昔は小学校五、六年生になると、女子は裁縫の授業があった。裁縫室近くに、幅三尺・長さ六尺の大きなヰロリがあり、休み時間になると、皆んなで炭火で暖をとっていた。新校舎が出来た年の冬に、石炭を焚くダルマストーブが学校に入った。石炭は使わなかったが、このストーブで薪を燃やして暖をとった。ストーブの暖かさはヰロリとは比べ物にならないほど暖かく感じた。各教室の隅には三角形のベントウ温めの火鉢を入れたものも設置された。
 
  夏の水浴びの場所は主にハシパタ(橋端)、
トラハタ、カイカ道で、いずれも流れの淀んだ所だった。当時は巡査様が白い夏服に着替 えないと水浴びをしてはならないことになっていた。後には、昭和六年頃発電所の堰堤が出来て、その水路伝えに遠くナキヘツリまで水浴びに行くようになった。当時あの深い堰堤で平気で水浴びしていたが、今思い返してみると、危険な場所であるのに、よく何の標識も設置せず、発電所でも何も言わなかった。 今考えると、世の中が至ってノンビリしていた時代だったと思う。子供の遊びなどは、全くの野放しであったが、不思議に何の事故も起きなかった。 また夏には桑畑の桑の枝を切り取って刀にしたり、鉄砲に見立てゝ、よくネッテットウ(戦争ごっこ)をして遊んだ。懐かしい遊び場も、今はほとんど畑と杉・松の植林地に変わってしまっている。

 秋になるとよくアケビを取りに行った。山
にはアケビの蔓の繁茂するアケビもだというものがあってアケビもいっぱいとれた。また、山ブドウもいっぱいあり、どこの家でもブド ウ酒を作っていた。今では、アケビもだのあった山は、ほとんどの山が植林されてしまって見られなくなり、山ブドウを取ることも難しくなってしまった。 今の管理棟の上ッ手は、冬になり雪が積ればスキーやソリ乗り場にちょうどよい場所であった。冬期間の遊びとして、スキーのほかにもソリ・ゲロリ・スケートがあった。ゲロリは三角形の下駄のようなものの下に金具を付けたもので、スケートのようにして滑る。スケートも下駄状のものに金具が付いているのだが、前が象の鼻のように螺旋状に丸く下駄の上にあがっているものでゲロリと同じように滑るものである。ゲロリよりはよく滑った。これは木地挽きをやっている人に作ってもらった。

 寒が過ぎ、カタユキ(堅雪)の節になると、 「陣取り」といってカタユキの上に四角を作り、四角の中の隅々に陣を作り、ウス暗くなるまで夢中で遊んだのが楽しかった。 春の遊びはコマ廻しで、現住吉屋の上ッ手 が一番早く雪が消えたのでよくそこで遊んだ。後になると、自転車のリームを回す遊びもあった。それにネックイ打ち。この遊びは、田んぼの中の遊びで、各々が手ごろの木の先端を削って尖らし、相手の棒(ネックイ)を倒して自分のものにする遊びである。

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   学校生活のこと

 私たちが一、二年生ころまでは石盤といって黒い石の薄いものに、石筆で字を書いては消し、消しては又書くということを繰り返して字を習うものがあった。落として割らない限り下の学年へ譲るものだった。当時帳面や半紙などは高価なものだったらしく、習字は古新聞紙を綴って何度も何度も新聞が真っ黒になるまで書いたものである。教室の席の後ろの壁にクギで吊るす所があり、そこへ掛けておいた。清書には三枚の半紙が配られ、三枚のうちより一番出来のよいものを上げた。

 「愛のムチ」といって全国どこの学校でも細い竹の棒が各教室に備え付けられていて、黒板に書いたことを、この竹棒で指して教え、時にはその棒で叩かれることもあった。少し悪さをすると、スグ罰則といって廊下に何十分も立たされることもあった。家に帰ってもそんなことは隠して皆黙っていたものであるが、それでも自然と親の耳に入っていたようである。

 進級する時、田島の本屋に、カタユキの上を本買いに行くのが何よりの楽しみだった。中には隣の家の子の本を譲ってもらう人もいた。当時は小学校を卒業すると、殆どの人が家業を手伝い、炭焼きや山仕事をやらされた。親が小学校を終わるのを指折り数えて待っていた時代でもあった。冬雪が積った朝は、五、六年生が村の端から端までフミダワラ(踏俵)かカンジキで道踏みをやることは当然の義務のように思っていた。
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    子供の病気のこと

 ミズクサは、ほとんどの人が経験したことで、鼻・唇・顔にでき、またシラミ・ノミなど多く体に付き、風呂に入る時、「シラミ捕ってやっから着物もってこい」といわれた。祖母がヰロリ端でよく捕ってくれたものである。学校で授業中に襟をシラミが歩くのをよく見たものである。

 夜メクラといって、夕方暗くなってくると、物が見えなくなる病気もあった。夜メクラには八ツ目ウナギがよいとされていた。ヤン目(ヤニ目)は目が赤くなり、目が渋くて物がハッキリ見えない病気だった。当時なぜか分らないが、ヤン目になったら馬の尻毛で拭くと治るといわれた。あの不潔な尻毛で拭いて治るとはとても信じられないが……。

 ネギ棒たらしといって、両鼻よりウス青い鼻汁が次から次へと絶えず出てくる病もあった。耳ダレ、これも多かった。幾松氏宅に耳ダレ観音があり、その周りに木製の汁椀がいっぱい吊るしてあった。今では想像もできないような色々な病気があった。回虫などは、多少の差はあっても誰でも針金のような、ミミズのような虫の小さいもの・大きいものを腸内に持っており、よく越中富山の薬屋の置くクスリを飲んだものである。これまで述べた色々な病気は、現在では考えられないことだが、今にして思えばすべて非衛生と栄養不良によって引き起こされたものであろう。

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     高等小学校時代

 檜沢尋常小学校針生分教場を卒業すると、福米沢にある本校の高等科に入った。そのころ分教場は高野・静川にもあった。両分教場は四年生までであったが針生分教場は六年生まであった。高等科になると、針生より福米沢まで二里(八キロ)の道を歩いて通学した。同級生は男女合わせて四十二名であった。

  高等小学校は高等科ともいい、校舎は小学校の棟続きで、当時の校長先生は丹藤の星春治先生だった。一年の担任は、師範出身の永田の芳賀真太郎先生、二年生担任は弥五嶋出身の星久守先生だった。芳賀先生は絵の上手な先生で、よく野外写生をさせてくれた。時には田島の鎌倉崎まで写生に行ったこともある。その頃鎌倉崎はほとんど田んぼばかりだった。

 同級生の中では芳賀沼直衛氏、野中米さんなどがズバ抜けて優秀だった。静川郵便局の細井敬介氏は小学校を終えると会津中学へと進学した。米さんはよく勉強もしていたのであろう。加賀の千代女の詠んだ「朝顔につるべとられてもらい水」の句を知っていた。 冬期間、雪が深く積った時の通学には、カンジキを履いて出かけ、黒沢の十本木でカンジキを脱いで福米沢まで歩いた。そうした時は、いつも一時間目の授業が終わっていた。浅布から来る生徒も同じように遅刻するのが 常だった。

 通学の途中、貨物トラックなどが通ると「のせろのせろ」といって頼むと、 には乗せてもらえた。運送はまだ馬車が主力の時代で、トラックは今生の芳賀寅商店、楢原の大星、西部地方では 力 印の羽染トラックぐらいのものだった。今なら二トン積トラックくらい であったろうか。 その当時は高等科を終えると、殆ど家業の手伝いで、中には若松へ丁稚奉公に出る人もいた。上級の学校に田島農林学校があったが、針生からは一人も進学しなかった。檜沢村中でもごく一部の人が行ったぐらいのもの だった。同級生の芳賀直衛氏一人が若松商業学校へ進学した。その頃は、家に帰って勉強する子供などはなく、専ら家の手伝いか遊びだった。

 一年生の時、田島小学校が郡内で初めてピアノを購入し、その披露演奏会が開催され、檜沢・荒海の高等科が聴きに行った。ピアノ を弾いたのは女の先生だった。その年の秋、田島で会津出身の柴五郎大将の講演があり、この時も檜沢・荒海の高等科が聴きに行ったが、大将の耳の大きいのに驚いた。

 五校連合競技会が毎年田島小学校で開催された。この競技会で一番印象に残っているのは、荒海の三五郎という人の万能選手ぶりだ った。残念なことには、その後海軍に入隊し戦死したと聞いた。  その頃、ごぜの坊(瞽女)という越後からやってくる目の見えない女の芸人が、四、五人ぐらいのグループをよく見かけた。三味線を片手に色々の物語りを語ったり、唄ったりして門付し、泊まるのは宿屋ではなく、一般の農家で、泊まる家は大概決まっていた。グループの先頭に立つ人はいくらかは見えるらしく、この人を先頭に立てゝ他の女は前の人の腰に手を当てゝついて歩き門付けをしていた。子供心に気の毒な人達だと思っていた。

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    青年学校時代

 高等科を卒業すると、殆どの者は家業の手伝いだった。当時針生にも青年学校があり、これは週二回の軍事教練を主とし、修養の時間も少しはあった。軍事教練は兵役の満期除隊者の優秀な方が指導にあたり、針生よりは皆川善兵衛軍曹・皆川幸平上等兵・星尚佐上等兵、大豆渡より猪股元吉上等兵の各先輩だ った。週二回といっても都合で行ったり、行かなかったりだった。猪股秀夫伍長は、常に胸に射撃徽章と銃剣術徽章を下げていた。現役満期の伍長で部隊でも最優秀者ではなかったろうか。

 青年学校では、冬期に入ると夜学部が開設された。針生分教場にも開設されて室井辰蔵先生が担任された。先生は家族とともに教員住宅に生活しておられた。後には若松商業学校の教師となり、さらに書道塾を開いて、書道の達人として名声を上げられた先生である。

 授業では修養の外に珠算も盛んだった。勿論、青年学校という教科書もあった。授業が 終わると、皆んなでストーブを囲んで雑談すること度々で授業が終わるとスグ帰ることはほとんどなかった。ある晩のこと、猥談に話がはずみ、夜半の十二頃までストーブに薪を入れ話していたら辰蔵先生が火の見廻りに来られ「何だ。お前ら、何時までおるんだ。帰れ帰れッ」と叱られ、大急ぎで火を消し、帰ったこともあった。  ある晩、先生の奥さんが走ってきて「大変だ、青年将校が反乱を起こした」と知らせてきた。その夜は授業は中止。先生の住宅のラジオニュースに釘付けになった。これが世にいう二・二六事件だった。

 青年学校時代に背嚢を背負い、銃をかついで磐梯山登山をしたことがあった。たしか七月二十一日の祇園祭の日だったと記憶している。田島駅より、翁島駅まで汽車で行き、それより磐梯山の山頂を目指しての行軍だった。 その日は真夏の暑い日で、いくら登っても登っても頂上はまだまだで、途中休憩した所に 沼があり、暑く汗ダクだったのでなかには水浴びする者もあった。しかし、さらに行軍が続いたので水浴びした者は疲れが一層ひどくなった。今度こそ頂上かと思って登るのだが、頂上は遥か上。山麓の裾をグルッと廻り裏磐梯からの登山であった。裏磐梯は草も生えておらず。広々としていた。火口をはじめて見 た。赤い焼け石ばかりで草はまったく見られなかった。

  途中に銀清水・金清水という二ヶ所があり、チョロチョロと水が流れていた。ノドが乾いていたので皆んなこの水で一息ついた。 ようやくの思いで頂上に辿り着くことがで きた。頂上に磐梯山神社の石の祠があった。頂上に着いてまもなく、天候が急変し、にわか雨と雷でユックリ周囲を眺める間もなく、表磐梯の急斜面を我先にと駆け下りた。せっかくあれほどの骨を折って登頂したのに、ゆっくり周囲の景色を眺める間もなかったのは残念であった。青年学校時代は若い年頃のこ とであったからその他にも色々と楽しいことが多かった。

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    家業に就く

 当時は殆どの子供が勉強しようなどという気はなく、只毎日凡々と通学し、年限が来ると卒業した。子供が卒業すると、世間でも、家でも働き手が一人増えたと喜ばれる時代であった。私の祖父がトーベエ(藤兵衛)畑に小屋を建てゝ泊り、一人、朝暗いうちから夜暗くなるまで働いていて、家に帰ってくることは稀だった。米・味噌・いも・茶などは家から運んでもらっていた。働くことに生きがいを感じ、丈夫で働けることを幸せと思い、むしろ働くことを楽しみとしているかのような祖父であった。

 田植えが終わると、毎年の年中行事のように新田起こしに明け暮れ、その合間々々をみては植林を心がけ、盗み手間のようにして造林作業に励んでいた。そのような祖父の下で、私も共に生活することとなった。慣れない仕 事ではあったが、何とか祖父に教えられながら、頑張った。全くのシロウトであったから、勿論能率は上がらなかったが、日々仕事をしていく中で次第々々に要領も覚え、祖父に付いていけるようになってきた。 私は、昼休みに風呂の水汲み、五分芯ランプのホヤ掃除、夕方になると一足早く帰って食事の準備もさせられるようになった。食事といっても簡単なもので、飯を炊き、いもの皮をむいき、野菜を入れてお汁を作るだけで、他に何もなかった。

 山小屋での生活では、大雨が降った時が一番閉口した。大雨で濁った水を手桶に汲んで来て、手桶の底に沈殿したゴミが浮き上がらないようにヒシャクで上部の澄んだ水を使わなければならなかった。偶に祖父が食事の準備をすることがあったが、祖父の作った味噌汁はショッパ(塩辛い)過ぎて私の口に合わなかった。

 朝、私が目を覚ました時には、祖父はいつ もいなかった。必ず飯前仕事をする習慣が身についていたようである。祖父が熱中した、年中行事的な田植え後の新田起こし作業は、昭和十八年まで続いた。ある年、水不足で田植えができず、ソバを三反歩も蒔いたこともあった。 普通、田植えが終わると、今度は昨年起こした新田の田植えに取り掛かるため、田植えがすべて終わるには半夏までかかった。新田はロクに(十分に)作土もなく苗を植えるのに苦労した。秋に稲を刈り、ハデに掛けても穂の実入りが悪く、頭デッカチの稲束で風が吹くと飛ばされてよくハデから落ちたものである。 祖父は新田起こしに、よく馬を利用した。曳き具に代掻き道具をつけ、モッコに入れた土を運ぶのだが、このモッコは大きいほど能率が上がった。時にはランプをともして夜業をすることもあった。
    

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    祖父の造林熱

 前にも述べたように祖父は新田起こしの合間を見て植林していた。造林の仕方は、植林地の下拵えなどせず、雑木の下に苗木を植えた。日陰故杉苗の活着率はよかった。その後、仕事の合間を見て刈り払いをするのである。

 祖父は、忙しい中にも芝居や掛け軸収集、鯉を飼うなど色々の趣味を持っていた。なかでも鯉を増やすため、苗代の一枚を深く掘り下げ、雑木や杉の葉で覆い鯉が産卵しやすい環境を作り、ある程度大きくなると、沼へ移した。そのため沼には大きな鯉がいて茶碗など洗うと寄ってきた。鯉の餌には、よくツブ(タニシ)を石臼で潰したり、、繭のヘビス(ヒビス)を買い与えた。鯉の沼へよくクイナ(カワセミ)が来て小魚を捕るので、沼の周り四ヶ所に棒を立て、その上にトリモチをいっぱい塗っておき、よく捕ったものだ。今ではカワセミなど川でさえ姿が見られなくなってしまった。
 
 夏の夜になると、よくホタルが飛んでいた。カエルの声がやかましいほどにぎやかに鳴いていた。
 山の小屋には、田植えが終わると、稲刈りまで馬二頭を連れて行き、その飼い葉となる朝草刈りが大変だった。村には、多い時で八十頭からの馬がいた。各家で毎朝刈るので草刈り場がなくなり、たいした刈り場のアテもなくウス暗いうちに馬に乗って草刈りに出かけ、何とか、かんとか六束(壱駄)刈り纏めて馬につけ、ユウニ(背負ってくる草)は少し軽く作って背負って帰った。

 ある朝、姉が家から小屋に来て、朝草刈りにタツイ姉と三人で官行造林の林道を藤生界まで行ったことがある。ここには防火線が三メートル幅で全山に切り廻らしてあり、茅がいっぱい生えていたので早く刈り終えた。そこから関本の小学校がよく見えた。恐らく片道一時間半はかかったろう。  今考えても、毎日の朝草刈りは本当に大変 な仕事だった。 当時は、炭焼き以外に金を取る仕事がなかったので、村より男女六十人以上は官行造林に出役していた。その時代は労働賃金が安く、その割に物価が高かった。男一人の日当で酒一升、女手間では地下足袋一足ぐらいにしかならなかった。多分男の手間賃が六十銭〜六十五銭。女が四十銭〜四十五銭ぐらいだった と思う。

 店から買うものは酒・タバコ・油・砂糖・石油などで、缶詰・サイダー・生菓子・雑菓子・一厘玉(飴)もあるにはあったが、正月とか盆とか祭りでもなければ口に出来なかった。各家で鶏を飼っていたが、卵はそんなに多く産まず滅多に口に出来なかった。風邪でもひいた時、見舞にもらった卵を食べられるぐらいのものだった。現在と違い乾物商といって、ボウタラ・ニシン・スルメなど海のものは皆乾物だった。

 夏になると、蚊とアブがやたらと発生し、 夜はどこの家でもカヤを吊って寝たものである。カヤのない家はおそらくなかった。六帖吊りと八帖吊りがあった。私の家の上ッ手は皆川商店の大きな麻畑、下ッ手は初義兄宅の麻畑で、蚊は特にその麻畑より発生していたようだ。トーベエ畑の小屋には馬二頭飼っていたので昼時などハエがいっぱいでワァーンと音するほどで、いたるところヘクソ(蝿クソ)だらけだった。

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    青年会入会

 学校を卒業すると、村の青年会に入会することは義務のようなもので、私たちが入会したのは昭和九年春だった。当時青年会長は故平野久次氏だった。会員数六十余名で、その中に大世話人二十五歳、中世話人二十歳、小世話人十六歳と決まっており、祭りの御神燈、盆踊りの櫓上げ、秋の相撲の土俵作り及びこれらの行事の後片付けなど、総て世話人の仕事だった。秋、梁取の一 太神楽が来て「寄せ」 を打つ時など村中より寄付を集めるのも世話人の役目である。

 昔は徴兵検査というものがあり、二十一歳の男子の国家への三大義務の一つで、甲種合格で入営する若者のために、秋の菊の節句には校門の所に杉の葉でアーチを飾り、送別会を催すことは、青年会の毎年の年中行事であった。  夜回りは、春の乾燥期より田植えになるまで、屯所に集まり、組廻りで夜半の十一時頃まで二回づゝ、鐘をチリン チリン チリン、パチ パチ パチと打ち鳴らし夜警した。各家庭に拍子木といって堅い木で作り、これに「火の用心・年月日」など書き付けた。この制度は戦後も暫く続いたが、近年は消防団が代わってやるようになった。消防団といえば、昭和十四年にそれまでの消防組が防護団と一緒になって警防団と名称が変わった。これは日支事変が拡大したためで、防空演習がよく行われた。

 この時の団長は皆川善兵衛氏で、その年針生ではセル付の最新鋭のガソリンポンプを購入した。ポンプが田島に着いた時には駅まで迎えに行き、団員全員で曳いてきた。このポンプには市原市(千葉県)森田ポンプ製作所のプレートがあった。セル付など他村にはなかった時代である。タクシー・トラックなどはクランク棒といって一人が自動車の前でクランクを廻して始動させていた。この優秀なポンプも間もなくクランク始動になった。 車輪は棒タイヤといって空気のいらないゴム車である。聞くところによると、針生出身で横須賀在住の皆川磯吉氏に、どこ製造のポンプが優秀かと伺って選んだとのこと。因みに皆川氏は海軍機関兵出身で終戦の時には海軍少佐だった。

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      父の病気

話は変わるが、私の父が中耳炎を患って非常に悩み、若松の山川耳鼻科医院に入院したことがある。入院は一ヶ月ほどで、無事退院し たのだが、養生のため、専ら家の方の一町一反の田んぼの朝夕の水見をして管理し、その傍ら精米作業をやっていた。トーベエ畑へは田植えと稲刈り・ き以外には行かなかった。ある時、祖父は私に「梅義は山林に全く関心がない」と云って嘆いたことがあったが、父は父なりの仕事があり、林へなど行っている時間がなかったのであろう。祖父と一緒に生活したせいか、正直いって父よりも祖父の印象の方が深い。

 祖父は気性が激しかったが、父は温厚そのもので、推されて区長までやった。父は常に修養に励んだ。田植えの節になると、田植え人夫を頼むのが大変で、私の小さい頃は、今生より五、六人頼み、田植えが終わるまで泊り込みだった。次に下塩江より、そして福米沢よりとダンダン上に上がってきた。田植えに来てくれるのは若い女衆なので、その頃は村の若い衆がよくノゾッコミ(覗き見)に来たものだ。

 金井沢から来るようになると泊まらずに通いになった。その後大豆渡の安配達(郵便局員)に依頼し、それがズーッと続いた。昔は朝早くから働くことは当たり前で、特に田植えの手間は普通より高かったので、朝早くから夕方暗くなり手元が見えなくなるまで働いたものだ。

  ある時、祖父は遠いところから大声を張り上げて「皆んな暗くなるとアシダカ(足半)が分らなくなるから腰に下げてくれ」といっ
たこともある。当時は労働時間など別に気にせず働いたらしい。高い手間賃だから当然だと考えていた時代だったのだろう。昔の苗代は日の当たらない窪の清水の出る処がよいところとされていた。それは霜や風に当たらせない為だった。苗取りは上手な人即ち農作業のベテランがかかわったものである。苗はよく絞って五十把一包みにし、カヤで編んで所々に竹を編み込んだコモがあり、馬には五十把を四つ付け、人は一包みを背負って本田 に運ぶのが普通だった。苗はよく絞ったつもりでも水がチタチタと垂れ、腰から下は濡れた。それゆえ、田植え時は天候に関係なく蓑を離さなかった。苗取りは、朝早くから始めるのでヌカ蚊といってごく小さい蚊がいっぱいいて、これを防ぐのに古綿に火を付け燻して蚊を除けた。冬期間のうちに使い古しの綿を縄により蚊除けの材料に準備しておいた。

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    歳ノ神のこと

 歳ノ神(サイノカミ)は、昔は村を上ッ組と下ッ組に二分して祭る行事で、主役は二十五 歳の人で、厄年に当る人は前の年のうちに、切る木に大体の目星をつけておき、正月二日に山入りと言って、〆縄を太く、丸くしたものをもって山に入り、その〆縄を松・杉・雑木のいずれかの木に掛け、サイノカミ切りに行った。当地のサイノカミは昔からブナの木に決まっていた。

 山入りの〆縄は、その年一年間の山仕事の無事を祈り、安全を願ったものである。前年 に目星をつけておいた大きなブナの木を切るのだが、斧と鉈を使って切り倒し、鋸は使わない習わしであった。裏の方(先端の方)をボイといって、その下の枝だけキレイ(全部)に落とし、前の方(木の元)は曳きやすいように斧と鉈で丸くし、ハナグリ縄といって元近くを丸く り取り、その窪みを藤の蔓でシッカリ り付け、ハナグリ縄を七本取り付け、ボイは五ヶ所ぐらい藤の蔓できつく縛り、そこへ又曳くための藤蔓を幾ヶ所も縛り付けた。このようにして引き出す準備をして おき、四日の朝サイノカミ曳きに五、六年生以上の若い者が、早朝から焼いた餅をフルシキに包んで腰に縛り付け、威勢よくサイノカミ曳きに出かけた。それがまた楽しみだった。当時山へ行くには、藁で作ったゲンベエ(藁沓)にハバキを脛に当てゝの ちであった。ゲンベエは割合温かかったし、雪道でも滑ることもなかった。

「坂迎え」といって普通、ナキベツリの橋 を渡った処が山から切り出したサイノカミを迎える場所となっていた。近くに積んである薪を運んで、そばに居られないほどドンドン燃やしてサイノカミの来るのを待っている。そのうち厄年に当っている家では重箱に煮しめを詰め、ミカン・菓子など持って駆け付ける。壱斗樽のお神酒をせおってゆくものもあった。当時、酒は高価なもので、この一斗樽は、後日厄年のもの皆んなで負担した。サイノカミが到着すると、前記の如く御馳走を出してもてなした。ここでは他人の棚木(薪)をいくら燃やしても、昔からの習慣で誰一人文句を言う人はいなかった。 サイノカミが坂迎えに到着すると、重箱の煮しめ・ミカン・菓子・酒などタラ腹馳走になり、ワザとウス暗くなるま待ち、暗くなったところで麻ガラの松明を灯して出発し村に向う。お神酒が入っているので若い者は村入口の ッ原に出るとさらに元気よくなる。

  現在の管理棟付近には老若男女小さな子供ま
で迎えに出ており、サイノカミはハナグリ(先頭)七人、ボイ振り、これは若い者から小学生まで大勢で曳いた。テコかえといって二十五歳前後の者が太い朴の木や栗の木を切って作ったテコで梶を取った。そのテコ棒を秋のハデ結いの立て棒に利用できるほど太く長かった。

 上ッ原へ着と、よくノセカケくら(競争)といって、二本のサイノカミを互いに持ち上げ上に乗っかった方が勝ちでこれを何回も繰り返した。さらにサイノカミは村中を曳き廻 り、孫を負ぶって参加する人もいた。まるで村中が気違いのように一生懸命曳いた。上ッ組・下ッ組は毎年交互に赤い手ぬぐいと黄色い手ぬぐいでハナグリは勿論、皆んなこれを鉢巻きにしたり、首に巻いたりしていた。

 十四日になると、組毎に村中から麻ガラ・ワラなどをもらい集め、これをサイノカミの下の方から順々に藤蔓で巻き付けチチンボーで叩きながら堅く締め付け、ボイ(枝)下近 くまで巻き付けて作った。サイノカミの立つ脇では、朝鳥・夕鳥といって、雪を幅九尺、長さ二間ぐらいに掘り下げ、雪の壁の中に三ヶ所祠を掘り込み、ローソクを立て神祭り棚を作り、周りを門松で覆った。

 サイノカミに火を けるのは二十五歳の厄年の人と決まっていた。サイノカミに火がつくと、長いダンゴの木の先端にダンゴや餅などを刺して焼き、是を家に持ち帰って食べると、一年中病気にならないといわれた。

 年寄達は、朝鳥・夕鳥の中にローソクを立 て、各々願いごとをお祈りした。サイノカミが終わると、田ノ神といって二十五歳の厄年の方は清水端(今の民宿清水荘)より、天狗面とカラス天狗面をかぶりダブダブの綿の入った夜着をきて、腰に刀のように餅押棒を差し、村の古峯神社を参拝し、それより芸の達者な人が、色々に扮して村の重立ちたる家を訪れ、諸芸・歌などを唄って夜の明けるまで次々と歩いた。この時、村人もゾロゾロ 付い て廻わった。田ノ神の案内役、これを取り仕切る人は星留次氏で、田ノ神の寄る家では膳拵えで迎えた。

 古老の話によれば、清水端は昔より星市右衛門を襲名する家で、その昔鹿沼の古峯神社参詣の折、特別御祓いを受けて持ち帰ったのが今の天狗面二面だというが、何時のことか時代は分らない。徴兵検査(今の二十歳)の年には必ず鹿沼の古峯神社に参詣した。鹿沼駅より歩いたが、なかなか遠いと思った。参詣の折には古峯神社の大広間にウスイ蒲団にくるまって一泊した。一汁一菜の簡単な食事だったことを覚えている。二月十日の琴平神社の祭礼には、境内の池の中を清掃し、宵祭りの晩は御籠り堂に炭火を周囲が明るくなるほどおこし、神社より何回となく池に飛び降り、寝ずにお籠りをした。今では御籠り堂も全く使われなくなってしまった。昔は古峯神社参詣に代参講があり、村で旅費・宿泊代等を出して代参させた。代参者は帰ってくると、 村中に御札を配って歩いたが、戦後になるとこの制度もなくなってしまった。
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                 二、戦時出征のこと 

 
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徴兵検査と入隊


    (略)

 徴兵検査の時はどこで生活していても原住所(本籍)に戻らなければならなかった。西部の人達は駒止峠を越して田島一泊だった。

 徴兵執行官は中佐の方で、外に軍医衛生士官がいた。最終的には執行官が書類に目を通し、甲種・第一乙種・第二乙種・丙種の格付けを決定した。私は第一乙種合格を宣せられた。格付けは、その場で復唱するようになっており、「第一乙種合格ッ」と復唱した。

   (略)

 私達は皇紀二六〇〇年、つまり昭和十五年召集兵で、後より野砲兵一番のクジが届いた。徴兵検査の時、勤務地希望欄があったが、私は外地に○を付けた。家を三月四日に出発、父と博君が一泊で郡山まで送ってくれた。郡 山では夜街へ出て最後の別れに喫茶店で飲み食いしたが、これが父と博君との本当に最後の別れになろうとは夢にだに思ってみなかった。父は終戦の年七月胃潰瘍で亡くなり、博君は召集を受け出征の途中、輸送船中で魚雷 攻撃を受け沈没し戦死した。

 郡山には各方面から多くの徴集兵が集まり各宿に分宿した。翌朝郡山出発。一路集合地の広島へ。広島では割り当てられた旅館に分宿、夜、曹長殿が来て明朝の出発時間などが知らされた。次の朝曹長に引率され広島の兵舎に入った。

 三月八日、宇品港にて乗船、間もなく出港したが、もう外は暗くなっていた。出港して三十分もしたろうか、船は停止、何時間も動かなかった。後で聞いたことだが、スパイがいるのでワザと航行時間をズラシていたのだという。玄界灘とは聞いていたが、その名に違わず、波浪はげしく船は上下にはげしく揺れ、八割を越える兵士が船酔いとなり、飯上げといってもごく一部の人達だけで他の者は喰べるどころでなかった。船体が持ち上げられる時はよいが下がる時の気分の悪いことと言ったら想像を絶するほどで、皆ゲイゲイと吐いた。各人に洗面器の様な物が渡されてお りそれに吐いた。食事どころでなかった。

 ようやくの思いで海を渡り、大連に三月十二日上陸した。上陸と同時に船酔いはウソのようにケロリと治った。大連に一泊。翌朝列車に乗り一路黒河へと走り続けた。大連には桃の花が咲いており、暖かいのに驚いた。列車は乗り換えなしで驀進したが、白城子という所へ夜明けに到着した。外を見ると、機関車の周りいっぱいにツララが下がっていた。随分と北へきたようだ、寒いところだと思った。白城子より歩兵の警備兵が前・中・後と付くようになった。匪賊に対する警備であったと聞く。最終駅は黒河だったが、防諜上手前の神武屯駅で下車し、夜の行軍で部隊に向った。夜食にはジャムパンとアンパン二つが配給になった。田舎者だったゆえアンパンは本当に美味しかった、私の田舎では、まだあんなアンパンは売っていなかった。

 入隊した部隊は、通称満州黒河第八四部隊であったが、中身は第七国境守備隊だった。 入隊した所は砲兵第一中隊、のち、通信班となる。国境守備隊は歩兵五ケ中隊、砲兵三ケ中隊、工兵一ケ中隊の混成部隊でなりたっていた。糧秣 ・弾薬・燃料は常時三ヶ月分を貯えていたと聞く。

 満州は酷寒の地ゆえ、東北の人が多いのかと思ったら、何と関東・関西・九州の兵隊がいた。北満最果ての冬期は零下二〇度、三〇度は普通で、空気が乾いているのでザラメのような積雪だった。尚、関東軍は甲装備といわれ、対ソ戦に重点をおいていたから現役兵が多かった。中国戦線は乙装備といわれた。

 私は一中隊に入って間もなく通信班となり、赤・白の手旗を持ち、初めは現字通信から始 まった。これはそう難しいものではなかった。 現字が終わるとモールス信号に入るのだが、覚えるのに一苦労した。通信には憶測は禁物で、分からなければ飛ばして書かせられた。憶測して読み、よく小屋一周とか電柱一周など数百メートルも駆け足させられた。モールスに熱中すると、風にとばされてカランカランとなる音さえモールスに聞こえた。手旗でのモールスが終わると夜間、十糎回光通信機といって、照明灯があり一人が発電機を廻し、一人が送受信するのだが手旗での通信が出来れば難しいものではなかった。

 部隊には国境を監視する区域が定められており、さらに各中隊ごとに監視区分があった。小黒河、ここは黒河公園の中にあり、有刺鉄線を廻してあり、特殊な勤務地で、軍隊でな いように見せるため、皆満服着用、「……さん」呼びでここへ入るトラックも満服姿だった。その地下に三八野砲二門備え付けてあり、哨長は少尉で十五名ぐらい勤務していた。監視哨は木製の高い望楼があり、常に十数名が監視にあたっていた。七〇倍の望遠鏡が備えてあったが、遠くはボヤけて見え、七倍率の双眼鏡の方がハッキリ見えた。対岸ソ連のトーチカの兵の出入、トラックの出入等の数を監視していた。 又、黒龍江に合流するゼーア川があり、奥にはゼーア江上艦隊がおり、時折、江上に姿を現した。この艦隊所属の快速巡視艇といってプロペラで走る船で、スピードも早いが、物凄い轟音をたてて警備していた。船上の重機もよく見えた

 黒龍江の川幅は、七〇〇メートル〜八五〇メートルはあった。夏は客船・貨物船など通っているが、冬期に入ると川面が全面結氷し、渡河はどこでもできた。場所によっては砲車 渡河が可能な所もあった。対岸ソ連にもトーチカ監視哨が何ヶ所も見えた。

 ソ連からよく逃亡者があったが、時には偽装逃亡者といってスパイもいた。逃亡者は部隊で簡単な取調べを行った上特務機関に送った。真の逃亡者には教育をして、又ソ連にスパイとして送り込んだという。 話しは前後するが、昭和十六年六月、関特演(関東軍特別大演習)下令、六月というのに冬服一装用着用し、日の本神社前に部隊一 同集合、政木部隊長より命令伝達と訓示のもと、出陣式が行われ、事実上戦闘配備につく。この晩秋雪の降る中、関東軍全域に渡り、かつてない大演習が実施された。この時は従軍記者まで参加した。

 今考えると、あの大演習は太平洋戦争開始前の一つの陽動作戦だったことがよく分かる。あの時は関東軍精鋭一〇〇万といわれた。何処へ行っても兵隊ばかりだった。

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   太平洋戦争

 この年十二月八日、ご承知の如く太平洋連合艦隊によるハワイ島の真珠湾奇襲作戦で米英との戦闘の火ぶたが切って落とされた。

 昭和十七年、対岸のソ連兵は、独ソ戦のためそのほとんどの戦力をレニングラード、スターリングラード方面に送られ、対岸は女兵となった。男子兵は偶に乗馬姿の巡察将校を見るぐらいであった。将にソ連国家存亡の危機であった。終戦後シベリアに抑留されて目にしたことだが、軍のトラックはほとんど米国製で、兵器・弾薬・軍靴・食糧等あらゆる物資援助を受けていた。食糧の入った麻袋にはアメリカ・イギリス・フランスの国旗が大きく印刷されていた。如何に多くの国の援助を受けていたかがわかった。ところが、終戦になると、ソ連兵までアメリカを悪く言っていた。国の政策とはいいながら、義理や人情を感じない国民なのかと思う。現に戦後五十五年を経た今になっても北方四島を返すとは一言も云っていない。日本の常識の通じない国、何か得体の知れない国と私には思えるのである。

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   二度の入院

入隊中の軍事郵便物は、軍の機密保持上ほとんどハガキのみで、 封筒の手紙などは准士官以上でなければ出せなかった。便りといえば、気候のこと、元気でやっているとのことぐらいで、その外余分なことは何一つ書かれず、一切禁じられていた。その上、中隊長の検印なしでは出されなかった。

 その頃の所属部隊名は満州黒河省第八四部隊熊谷隊で、各中隊長の姓が中隊の上に冠せられていた。国境守備隊故か、満期除隊者は、皆勲八等を授与された。我が砲兵第一中隊の熊谷大尉は古参大尉で、非常に厳格で、信賞必罰を信条とする人だったので皆に恐れられていた。部隊きっての厳しい人であった。

 中隊長殿は、常に「らしくあれ」主義で初年兵は初年兵らしく、古年兵は古年兵らしく、また、班長は班長らしく、小隊長は小隊長ら しく、中隊長は中隊長らしくしなければならない、という考え方で、この「中隊訓」は、第三代中隊長秋葉大尉(埼玉県深谷町出身)第四代中隊長大久保中尉(仙台出身)の代になっても変わらなかった。何れの中隊長も熊 谷中隊長の薫陶を得、脈々としてその伝統精神を受け継いだ隊長たちであった。  戦後復員してから、私は熊谷隊長宅(宮城県栗原郡栗駒町)を隊長の生前に二度、没後お墓参りに一度と三回訪ねた。

 話は元に戻るが、私は昭和十八年三月、中隊被服係助手を命ぜられ、毛布・衣類等の整理などをしているうち、三ヶ月ぐらいして左脇腹が痛くなりだし、呼吸する毎に苦しむほどに体調を崩してしまい医務室に行った。診察の結果、「左湿性胸膜炎」と診断され、 陸軍病院に入院した。その後、長期療養のため南満州の 陸軍病院に転送された。さすが南満は温暖な気候で、陸軍病院には温泉もあり、リンゴも栽培され ていた。大変環境のいい所で、各部隊より多くの患者が入院し療養していた。但し建物は急造の粗末な木造平屋建てで、建物は神武屯の病院の方が立派だった。

 陸軍病院で長期療養中、ハルピンの部隊で勤務中病魔に犯され入院していた年配の方(三十歳以上に見えた)が、「これは秘密で語れないことだが」と前置きして「細菌培養の研究をしている部隊に勤務していた」と話していた。その方は、軍人ではなく軍属のように見受けられた。その時は、別に気にもせず聞き流したが、この部隊が戦後問題となった七三一部隊、つまり細菌研究開発部隊だったと戦後になって一人納得がいった。 患者の中には仮病を使って内地送還ををもくろむ者もあったが、そういう事を考えるのは、大体召集兵や補充兵に多く、私達のような現役兵は逆に一日も早い原隊復帰を念じて専心療養に励んだ。私は五ヶ月ほどで治癒し、原隊復帰を命ぜられた。退院の時、やゝ小粒 のリンゴだったが、五袋ばかり買い求め、帰隊して、中隊長以下幹部・班長・同僚に退院祝いとして味わってもらった。北満ではリンゴなどは全く見られなかったので皆に珍しがられ、大変喜ばれた。

 退院直後ということもあって、人事係国弘准尉(山口県光市)には温情あるご配慮を頂き、比較的楽な長發屯監視哨勤務を命ぜられた。こゝの勤務は木製の、高さ十五メートルぐらいの望楼があり、ここに登って、交代で、二十四時間態勢でソ連側のトーチカの出入の兵の数、トラックが月何回出入するか、その他中隊に与えられた区域の広範囲の監視が主たる任務だった。 しかし、この任務中に再度、私は下腹が痛くなり、吐き気を催し便所にスグ入った。だが、便は出もせず吐くばかりで苦しみ増すばかりであった。その時誰かが、この異常に気が付き哨長に報せてくれたので、哨長はスグ部隊本部に連絡してくれた。部隊とは二里ぐらい離れていたが、一時間あまりで迎えのトラックが来てくれ、そのトラックですぐさま神武屯陸軍病院へ直行し入院した。診察の結果、急性盲腸炎と分かり早速手術した。普通盲腸炎ぐらいだと八日〜十日で退院できるのだが、私の場合は手術して縫合後に内部が化膿したため再切開となり、開いたまま毎日々々切開口よりガーゼを詰めて膿を取除く治療となり、傷口は四方より肉が盛り上がり、四十三日もかかって漸く傷口が塞がった。この時、開いたままでも傷口が自然に塞がることを初めて知った。そこには今でも大きな傷痕が残っている。

 軍隊では、入院することは、それだけ御奉公をおろそかにしたことになり、従って昇進に大きく影響した。といっても病気は避けることができず、一つの運命と考えるしかなかった。本当にどうしようもなかった。入院中に死亡する者もいた。特に長期療養の熊岳城では現役兵三人の死亡を見てきた。そのことを考えると、私は二度も入院したのに運よく回復することでき、その後は軍務に精励できた。終戦と同時に酷寒のシベリアに抑留されたが、そこでの作業にも耐え、今尚元気でいられることに感謝している。人間には、やはり運、不運はあるものだとしみじみ感じるのである。 軍隊では事故死・病死共に戦死として取扱われた。退院後、中隊長大久保中尉(仙台出身)の温情により激務を課せられなかったことは、本当に有難く、心より感謝している。

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    三年兵から五年兵へ 

 私達の先輩は三ヶ年の兵役の義務が終わると満期除隊した。私達も当然三ヶ年の兵役が終わると満期除隊があるものと思い、黒河の街よりトランクやら何やら買い求め、除隊の日の来るのを楽しみにしていた。ところが、太平洋戦争が拡大激化してくると、「玉砕」の報さえ耳にするようになった。そのような状況の中で私達の満期除隊の期待は薄らいでいった。つまり、事態は「満期除隊即日召集」 にまで至っており、簡単な召集命令で完全に諦めざるをえなかった。それでも初年兵は次々と入隊してきた。その反面、終戦の年まで、転出者も次々とあった。陣地構築中や訓練中に転出命令が出ることも多く、正式な挨 拶などはなく、それぞれ極秘裡に転出していった。幹部の人達も歯が欠けるようにポツリポツリと何処へ行くともなく姿が見えなくなってしまった。 昭和十九年までは現役兵ばかりだったが、十九年暮に召集兵が初めて入ってきた。各班に五名ぐらい配属になったが、召集兵は年齢は私達より上であっても、現役兵の中にあっては何につけ遠慮していたようだった。

 軍隊では将校ともなると、当番兵があてがわれ、神様のような存在になる。ましてや部隊長ともなれば、兵長四人が付いていた。官舎に一人、本部内に一人、朝夕の送迎には馬に乗り、時にはクルマの送迎もあった。私は中隊長・大隊長の当番もやり、また、一号官舎の当番長もやらされた。一号官舎は部隊長・大隊長・中隊長・の単身者だけが入り、二号官舎は準士官以上の単身者,三号官舎は営外居住者軍曹・曹長が入っていた。その外、妻帯者は一戸建ての官舎がいっぱいあった。勿論子供もいた。子供達は黒河街の日本人学校に通学しており、軍の車で送迎だった。

  酷寒の北満は想像を絶する寒さだった。寒さを通り越して痛いという方が合っていた。マイナス二〇度〜三〇度は普通で、風呂からの帰りにタオルを上にするとそのまま凍った。中隊長・大隊長の拳銃の手入れは幾回となくやったが、手のひらにスッポリ入ってしまうような小さい護身用の拳銃もあった。後日モノの本で読んだことがあったが、ノモンハン事件の時、日本軍はソ連の機械化部隊の攻撃に遭い、ほぼ全滅状態の部隊があったが、その折、部隊長は軍の上司より自決を勧告され、 護身用の拳銃で自決したと聞いている。あの 小さな拳銃が自決用のものと考えると軍隊の厳しさを改めて認識する次第である。

 黒河周辺はドロ柳以外に大木はなく、一面草原の山ばかりだった。沢に小川が流れていても、内地のようなキレイな水の流れる川は一つもなかった。茶褐色の水で、とても口にするような水ではなかったので、部隊では水源池を作って浄化し、兵舎の上の山頂にある貯水槽へポンプで揚げて水道として使用していた。勿論、水源池と貯水槽には昼夜立哨していた。

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    中支へ移動

 北満の春と夏は一緒で、草原にはあらゆる花が咲き乱れ、内地では見られない美しい光景だった。昭和二十年二月、部隊は神武屯へ移駐したが、各監視哨は従来どおり勤務者を残した。私は間もなく中支への馬輸送員を命ぜられた。夏服携帯の上、将校以下二十名ぐらいで六十頭の馬を輸送して神武屯を出発した。三月中頃だったように思う。南下の途中、山海関で初めて万里の長城を見た。天津豊台という所にて桃の花を見て驚いた。北満はまだ防寒外套を着ているのに、こんなにも気候が違うのかと思った。

 途中、延安系の匪賊により、電話線の電柱が幾十本となく切り倒されているのを見て驚いた。また、鉄橋が爆破され、枕木を積み重ねて間に合わせている所もあり、心中穏やか
でなかった。駅名は忘れたが、途中大きな駅で停車し馬の水飼いをやったが、蛇口が一ヶ所だけで後方の貨車までは水を運ぶのは大変で、駆け足で発車時間にやっと間に合った。ところが、発車寸前に空襲警報のサイレンが鳴り、機関車と貨車が切り離され、機関車は小山程もある高い遮蔽内に入り、私達は貨車の下に隠れた。こんな大きく、高い遮蔽ははじめて見た。P51の来襲とは聞いていたが、幸い銃撃はされずにすんだ。保定・石家荘の駅は空爆を受け、骨組みの鉄骨の傾いた建物もはじめて見た。途中、無蓋車に山砲を積んだ、曹長以下三十名程の兵が乗っている列車と駅で遭ったが、曹長は「お前等この先気をつけろッ、危険だぞッ」と叫んで注意を促してくれた野砲隊に遭った。

 行き着いた所の地名は失念してしまったが、中支の街で、ここで無事馬六十頭の引き渡しを終えた。翌日は一日休養をとり、街の城壁・寺院など見学して帰路についた。帰ってみると、自分たちの所属部隊が神武屯から山神府に移駐していた。  終戦の年は軍の編成替えが激しく行われ、次々と後退移動した。間もなく私にも転属命令が出た。チチハルの第十二遊撃連隊編成要員としてだった。

 私達の中隊長は雨宮古参大尉(静岡県出身)だった。隊長は頑丈な体格の持ち主だった。要員として集まったのは、下士官ばかりで、主な任務は敵の主要施設の爆破であった。敵の駅・飛行場・発電所・貨物敞などの爆破ポ イントの訓練を受けているうちに、また部隊 の編成替えがあり、私は新しい中隊長の麻生中尉(九州出身)に率いる第一大隊に配属になった。特訓三ヶ月で私達第一大隊は に転出した。他の大隊は、東満国境方面へ行ったと聞いたが、軍の機密故詳しくは分らない。命令により動く軍隊は、紙一重の違いでそれぞれ違った運命を辿ることになる。私達の入った漱江の兵舎には、それまで原隊の水戸の歩兵連隊が入っていた。水戸連隊は北の守りから、遥か南方洋上のペリリュウ島へ転出、その数ヶ月後に全員玉砕の悲報を聞いた。運命というにしても余りにも痛々しいできごとで、今もって心の痛む思いである。クエゼリン・ルオット島の玉砕もこの頃ではなかろうか。

 終戦の年(昭和二十年)七月、在満者に二回にわたり召集があり、二回目は「根こそぎ動員」といわれ、開拓団の何の軍歴もない者まで召集された。召集兵は入ってきたが、その頃になると兵に渡す銃も剣もなく、古参兵のものを貸しての訓練だった。そのうち「兵器を渡すから受領に来い」との命令で助手の岡本上等兵(兵庫県出身)と受け取りに行ったが、渡されたのは九九式歩兵銃で、外部は全く研磨されていない粗削りの銃五丁であった。一日おきに受領に行ったが、今度は見たことも聞いたこともない折たたみ式の剣付騎銃だった。何か戦争の前途に不安を感じさせる出来事だった。

 二十年八月十三日頃だったか、下士官以上が集められ日本の終戦が知らされ、今後はソ連が入ってきても絶対に抵抗してはいけない、と告げられた。それから部隊全員に同様の趣旨の命令が伝達され、日本の敗戦が全隊員に知らされた。

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    ソ連軍の進駐

 ソ連軍は、八月八日行動を開始し、一斉に全てのソ満国境を越えて進入して来るとの噂が広がり耳にした。開拓団にも事前に通達があったらしく、各地の開拓団から毎日々々部隊に結集してきた。若い女の人は髪を切り落とし、額に墨や泥を塗って男装して来るもの数知れずのあり様であった。中には馬車いっぱい食糧・鍋などの家財道具を積んで入ってくるものもあった。しかし、真に必要な物を除いてこれらの大半は部隊に没収された。軍隊という所は個人生活を認めない所だったからである。

   部隊に入れた者はいい方で、私達の目に触れない所ではいろんな惨殺・殺戮が行われたことは想像に難くない。部隊は、このような人々で日に日に膨れ上がり、五〇〇〇人以上にもなった。宿舎は、大きな物置であったり、小さな小屋であったり、夫婦でも別棟に入れられる者もあった。私共も含め、誠にいうに言われぬ、惨めで哀れな姿であった。将に「勝てば官軍、負ければ賊軍」の感ひとしおであった。この言葉は洋の東西を問わず当てはまる言葉でなかろうか。 一方、土着民は、手の平を返すように、こ れまでとは打って変わって傲慢で険悪な態度を示すようになった。水源池は壊されてしまい、水の運搬にもソ連の歩哨付でドラム缶に入れトラックで運んだ。軍馬は営内に放されていた。馬は水を欲しがってよく人の側に寄ってきたが、馬にやる水など無く、どうする事も出来なかった。幼児が水を欲しがっても炊事班では与えなかった。むごいことではあったが、このような状況下では、また止むを得ぬ事だったのかもしれない。

 部隊の柵の外には、スキあらば馬を盗もうとする土着民がイッパイたむろしていた。柵内でも、臨月が来て赤ちゃんを生む者、死亡した幼児を柵の近くに埋めようとする者等々でごった返し、テンヤワンヤの毎日であった。ソ連軍の進入一日前に、森見習士官(九州出身)が乗馬で巡察に出たところ、土着民に草刈用大鎌で惨殺されるという事件もあった。

八月十五日、天地を轟かす凄い轟音が聞こえ てきた。さては敵の爆撃機の編隊の襲来かと、 上空を見上げた。空に爆撃機はなく、何と遥か彼方の稜線より戦車軍団が押し寄せてくるのである。一ツ、二ツ、三ツ、四ツ……と次から次へと無気味な姿を現してきた。戦車軍団は我が部隊に照準し停止した。その後間もなく野砲隊が現れ、遥か後方に砲列をしき、砲口を部隊に向け布陣した。その後ろよりトラックに全員乗車の歩兵隊が到着した。夜にはいると信号弾がソチコチより上り、不気味で、不安な一夜を過ごしたが砲撃もなく夜が明けた。次の日朝九時頃、ソ連の将校が通訳と少数の兵を伴って営門に現れ、部隊本部に入っていった。

 その日の午後になって、「各中隊は責任をもって将校集会所へ兵器を返納せよ」との命令が出された。滑谷曹長は私に対し「湯田、このあと何が起こるか分らないから拳銃を隠し置け」と命令された。私はケースより拳銃二丁を取り出し、ケースだけ将校集会所へ返納に行ったが、歩哨がいるだけで別に帳簿に引合わせるわけでもなく、各隊がバタバタと返納し集会所は兵器の山となった。トラックなども十五台ぐらいあったが、走れないように全部の車の肝心な所の部品を抜き取っておいた。返納拳銃の中にはドイツ製コルトなどの他、見たこともない拳銃もあった。軍の拳銃はすべて十四年式に統一されていたことから、これらの銃は現地召集兵が持ちこんだ物 らしかった。

 それ以降各兵舎内の検査が、ソ連兵より裏板の上、床の下まで徹底的に厳しく行われた。その上、ソ連兵は銃を上に向け連発しながら威嚇してダバイダバイと云いながら時計、その他目ぼしい物は何でも取り上げていった。 この時はじめてソ連兵の持つ銃が連発式銃であることを知った。後にシベリア収容所へ入ってから暫くしてソ連歩哨がよく銃を見せてくれたが、三十連発と四十連発との二種類があった。わが軍の上層部はソ連に自動小銃があることは勿論知っていたであろうが、一般 の兵士には全く知らせられなかった。

 歩兵は、朝に夕に銃剣術の訓練に精をを出してていたが、自動小銃の前に突撃命令では命が幾つあっても間にあいやしない。いくら大和魂と叫んでもどうにもならない。日本の兵器はこんなにも遅れていたのかとしみじみ感じたものである。

 ソ連軍による装具検査が何度も何度も繰り 返し実施された。滑谷曹長は「湯田困った、隠し持っていることはもう出来そうにない、何とか処分してくれ」と云ってきた。私も同じように隠して続ける事が出来そうにないと悩んでいた時なので、咄嗟に判断して「湯田が処分します」と拳銃と弾丸を受取り、私のと合わせて二丁と弾丸四十発を密かに便所へ持ってゆきポターンと便槽に落とし、やれやれと安堵した。私達はごく短時間で武装解除され、哀れな捕虜の姿となった。ソ連軍より体操・軍歌を禁じられ、何をするでもなく一種の虚脱状態で毎日々々ブラブラしているよ り外なかった。

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  シべリアでの収容所生活

 私達は、どこへ連れてゆかれるとも知らされることもなく部隊を出発したのは昭和二十年十月十日のことであった。ソ連将校と監視兵が前・中・後に付き行軍が始まった。行軍の途中、ソ連兵から「ヤポンスキー・ソルダート・トウキョウ・ダモイ・ハラショウ(日本兵は東京へ帰るのだ)」と言われた。こう教えられたのでウラジオストックよりすぐに故国に帰れるものと信じて喜び勇んで行軍した。行軍途中、フンドシ一つの姿で道端に横臥している日本人の死体を幾度となく目にした。暫く行くと開拓団の家は悉く焼け落ち、小形トラクターも焼けていた。誠に見るも哀れな光景で戦争に負けるということはこういう事かと悲痛極まりなかった。

 こんなことになろうとは夢にも思っていなかった。着いた先は監視哨より眺めていた対岸のブラゴエチェンスクだった。ブラゴエチ ィンスクは日本兵で一杯だった。そこから貨車に詰め込まれ、汽車は出発した。途中誰かが、「汽車の進行方向がおかしいぞッ、ウラジ オなら東へ行くはずなのに汽車は西にむかっているぞッ」と騒ぎ出したが、もはやどうにもならなかった。皆んな憂うつになってしまった。貨車に詰め込まれて七日目、名もない、人家もマバラなシベリヤの平原に降ろされた。二十分も歩いただろうか、門のついた宿舎に入れられたが、電燈もランプもなかった。この建物には強制労働者がいたとか、ドイツ兵の捕虜が入れられていたとか聞いたが建物は大変古いものだった。

 宿舎は二段ベットになっており、通路は土間だった。ここに着いた時日本人の少佐の人がいたが、何時の間にか姿が見られなくなってしまった。収容所長は大尉で、日本人の指揮官も若い大尉だった。この辺りは人家はないが、列車の引込み線がある所を見ると、以前より、ここは材木の集積所であったと推察した。材木の豊富な平原なのであろう。  朝の点呼がすむと、鋸とタポール(斧)を受取り山に行くのだが、片道一時間半はかゝった。伐採する木は主として松だったが、枝下の長いのには驚いた。

 火災予防と害虫予防のためか、伐採した木の枝葉は必ず焼却させられた。鋸挽きは日本と違って二人一組で両方に柄があって、押たり引いたりするもので、呼吸が合わず能率が上がらなかったが、次第に慣れてくると呼吸が合うようになった。 

 山を見たこともない者にとっては鋸・斧を 使っての仕事は無理だった。素人の集団ゆえ、とてもノルマ達成は無理であった。ノルマを一〇〇%達成しないと配給されるパンが小さくなり、それでなくとも、いつも空腹でいたので努力するのだがノルマ達成はなかなか出来なかった。甲種合格の体格のよいグループはパンを多く喰べたい一心で頑張り、一二〇%の作業をやった。だが、結果的には自分 自身を喰いつぶし早く死亡した。

 時にはカン木伐採といって山火事で立ち枯れした木の伐採もあったが生の木より手間どった。栄養状態がよくないので感が鈍り木が倒れる方に逃げ、木の下敷きになって即死する者もあった。伐採木は必ずノルマ検査があり、出来高のパーセントを出すのである。

 食事は朝、粟ガユに小豆の入った飯盒の蓋に七分目ぐらい盛られた程度で三口も食べると一食終わりである。昼食は軽い黒パンでフスマも入っていた。すべて塩味(うす黒い岩塩)で調味料など何もなかった。腹がすいて腹がすいて朝早く目を覚ますこと度々だった。

 冬期間零下三十度、三十五度でも作業は休むことなく続けられた。朝の点呼に星を眺め、帰りもまた星空に帰るという毎日で、厳冬期の八時間労働では益々体が衰弱していった。ある朝点呼をとった処一人足りない。班内を探したら、すでに冷たくなっていた。昨日まで一緒に作業していた人が、隣に寝ている兵 隊にも気づかれずにこんなに簡単に死んでしまうことに恐ろしさを感じた。信じられない事のようだが、このようにして、若い者が人知れず死んでいった。こうしてシベリアの各収容所では昭和二十年十一月より二十一年春迄にバタ    と抑留者が死んでいった。シベリアに抑留された邦人は六十余万人、そのうち一割の六万人余が凍土の下に眠ったと聞いている。

 各班にパンが配給されると夕方の食事は、パンを切る手に視線が集中した。いかに公平に分けるかが最大の関心事であった。切ったパンには番号を付け必ずクジ引きだった。ある班では手製のハカリまで作った。中には腹一杯くれるなら一生この地にいてもよいという者もいた。「ボタ餅を腹一杯食べて死にたい」と話すと、ボタモチはブルジョアだと決め付けられた。ウッカリ話しもできなかった。

かように生きるか、死ぬかの瀬戸際の生活をしていると、毎日のように人が倒れ死んでい っても格別可哀相だとか、気の毒だとかいう気持ちも全く湧いてこなくなってしまっていた。なぜなら明日にも我が身もかくなると思い込まざるを得ない心理状態だったからだろう。亡くなった人は、ほとんどが栄養失調で、日本の軍医は「米の一升もあれば、死なずに済むものを……」といって嘆いていた。

 昭和二十一年初秋頃のある日、私達が引込線の貨車に材を積んでいる時、突然「ヘータイサーン、ヘータイサーン」という甲高い子供の声がした。何年ぶりかで聞く懐かしい声、私達は作業の手をゆるめ列車の方を見ると、 客車の窓から五、六歳位の日本人の男の子が手を振っていた。なぜか、この時、私だけでなく周囲の者が涙した。

 貨車に「鞍山製鉄所・安全第一」の文字の鉄骨類が日中堂々と走り去るのを度々見た。ある日満鉄の機関車だけ、数えたら十八輌走るのを見た。満州のあらゆる設備品が持ち去られたのである。将に火事場ドロボー以上のものだった。

 その後柵外にある精米所勤務を命ぜられた。開拓団の年配者は三人を含め、十五人だった。精米所といっても、二宮金次郎式の石臼が四ツあり、足踏みで籾から白米にする作業だった。石臼から何回となく取出しては箕で吹いて、また石臼へ戻すということを繰り返して白米にするのだが、唐箕などはなかった。開拓団の方々は、手箕で上手に米と籾殻を選別してくれたので大助かりだった。この中に開拓団の斎藤幸一という、偶然にも福島県伊達郡月館出身の方がいた。以来斎藤さんとは今 でも年賀状のやり取りをしている。

 精米作業で、白米に仕上がると、腹が空いているので生で食べ始めた者があったが、「生で食うのは止めろ、どうせ食べるんなら飯盒で炊いて食べろ」と言った。当時収容所で下痢になると、必ずといっていいほど死につながった。それが恐ろしかったからである。始めのうちは見つからずうまくいったが、二週間も経った頃だったか、ある日隊長(日本人の大尉)に呼び付けられた。「湯田、お前の班は飯を炊き○時○分頃班内に持ち込んでおることは知っておるのか」と尋ねられた。私はアッケにとられた。同じ日本人として前記の をそのまゝ申し上げ「責任は私にあります」と申し上げた。ところが、隊長に「生意気いうな」と一喝された。  その翌日、私達十五名は五日間の営倉入りとなり、一日二食しか与えられず体はまた衰えた。飯盒飯持ち込みを○時○分頃と時間までハッキリ言われたことは、内部の者の密告ということで私は心中穏やかならないものがあった。

 営巣に入る前、航空中尉の方が私のところに来て「湯田の気持ちはよくわかる、俺もそうした経験がある。辛いだろうが気にするな」となだめられた。あの時は、この温情ある言葉に気持ちが救われ非常に感激した。 この中尉殿は、操縦士で辛い目にあったと人づてに後から聞いた。軍隊にかぎらずどんな社会でもそうだが、地位を利用し、人を牛耳っても、必ずしも人は心から慕うものではない。温情あるやり方をすれば兵は自ずと信頼し、心よりついてゆくものである。真の和とはそういうものだ、と痛感した。航空中尉の温情は終生忘れられない。

 朝の点呼時、日本は番号をかけ、各班報告、すぐ総員何名、事故何名と報告した。それに対し、ソ連は、兵隊の肩にに手を当て、 ーと数えているので、これを見て日本兵はわらった。すると、ソ連兵は怒って途中で分らなくなり、又初めからやり直すというあり様で、「日本兵は頭がいい」といって感心していた。それに字の読めない兵が多かった。ソ連兵には義務教育制度などあったのだろうか。ぎもんである。また、さまざまな人種の寄り集まりの多国籍軍なのに言葉など通じたのだろうか。

 日本軍は四列縦隊だったが、ソ連側は終いには五列縦隊にした。これなら計算が速いわけある。ソ連兵は、目の玉の青い者・黒いもの、髪の毛は銀髪・茶髪・黒髪。体格もすごくいい者、普通の者と様々であった。日本兵とソックリの伍長がいたので通訳を通して聞いてみるとタタール人だとのこと。

 私達の収容所では六ヶ月で、将校を除き階級章は皆取り外させられた。ソ連で云う民主化(共産主義化)運動が盛んになり、ハバロスク発行の日本新聞が回覧されて来た。通訳で兵長だったが横暴を極めたため、終いには皆にツルシ上げにされ、他の収容所へ追放された者もいた。その後、通訳として入ってきた人は白髪まじりの小柄な方で、ハルピン大学の教授と聞いた。語学力その他について他のソ連兵はその博識に驚いていた。専門の学者であったから当然のことであった。漱江から収容所までの通訳は朝鮮人だった。 

 私達の収容所より伍長・兵長・上等兵の三人が逃亡したが、銃撃されて捕らえられ、朝 の点呼時に全員の前に引き出した上、収容所長が訓示したこともあった。伍長は右腕に銃弾が入っており、腕を切断された。その後三人は、特殊収容所へ送られたが、その後どうなったかは分らない。

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 私達の収容所が民主化(共産主義洗脳)されたと判断されたのか、どうかは分らないが、日本へ帰れそうだという噂が流れた。が、何時もウソをつかれ、 されていたので私達は容易には信じなかった。貨車に積み込まれ、又どこかの収容所へ連れて行かれるのかもしれなかったからである。 ところが、今度はウソではなかった。ある日一人一人名前を呼ばれ、確認された。一部の者は残されたが、その理由はよく分からない。その次の日貨車に積み込まれた。

 何日か過ぎナホトカに着いたが、先客が一杯おり、ここでは日本式の舞台も作られ、芝居や歌などが演じられ何年ぶりかで芝居を見 て心が和んだ。これは復員後に知ったことだが、歌を唄った兵の中に歌手の三波春夫氏がいたのである。  いよいよ帰国の日がきた。その日は、海岸の砂浜を三十分くらい歩かされたが、途中砂浜に打ち上げられているコンブを見つけ、我先にと走り寄り、口にほおばり歩哨に注意されたこともあった。引揚船に乗船するとき、名簿により一人一人名前を読み上げられ、静かに乗船したが、数千の兵が粛々と静かに乗船したことからどの兵も極度の緊張をしていたことが伺える。船に乗り込みヤット安堵した。  船は外部から見ると、まるで廃船同様のボロ船で、塗装などは剥げ落ち、赤錆であった。船中へ入ると、ペンキの臭いでいっぱいだった。兎に角帰国できると思うとありがたかった。この帰国船は「米山丸」七、二〇〇トンであった。ハッキリ記憶しているわけではないが五日間くらいで舞鶴港に接岸したと思う。

 四月十八日、汽車に乗り、いよいよ我が生まれ故郷へと向った。途中列車内より、爆撃され鉄骨だけ傾いて残っている建物跡を幾ヶ所も見た。また、列車は満員で、窓から乗り降りをしているのには驚いた。一方進駐軍専用列車はガラ空きで、なかで進駐軍の兵士と日本人女性が戯れているのを眺め、敗戦の悲哀をつくづくと感じた。東京上野に着いたら、○○県の○○さんをご存知の方はおりませんか、とマイクで呼びかけられた。家族の方が探しているらしかった。マイクを持っているのは若い学生さんらしく、今で言うボランテイアであったろうか。 東北本線の車窓から外を眺めていたら、そばに乗り合わせていた年配の方に「あんたどこか」と聞かれたので「田島です」と云ったら「田島ツ、田島は去年大火があって町の半分が焼けてしまったよ」と教えられた。若松へ夜遅く着いたが、田島行きの終列車が出た後で乗れなかった。この時、会津中学校の生徒さんが、駅に掛け合ってくれて貨物列車に乗せてもらい、ようやく田島に着くことができた。これもボランテアだった。ありがたいと思った。

 田島についても遅い時刻でバスがなかった。途中より一緒になった伊南村白沢の湯田桃一氏が、「山内写真館を知っているから、ここで今夜は厄介になろう」ということで写真館を訪ね訳を話すと、快く宿を貸してくれた。畳の上でのゴロ寝であったが有難いことであった。次の朝一番のバスで針生の我家に帰った。 バスを下り七年ぶりの我家へと急いだ。家へは電報を打っておいたので祖父が迎えに出てくれたが、祖父と万右衛門君宅の前でバッタリ逢った。祖父は涙を流して私を迎えてくれた。あの時の祖父の喜んだ顔は今でもハッキリ目に浮かぶ。その日は四月二十二日の朝だった。まだ道には雪が残っていた。祖父から、最初に聞かされたことは、私の父が終戦の年七月に胃潰瘍で亡くなったということだ った。この時父の死をはじめて知った。四十九歳の短い生涯であった。

 今振り返ると、五年間の軍隊生活、二年間の酷寒の地シベリアでの抑留生活で、空腹に耐えながらの作業等を思えば、貴重な青春時代の空白の時間といえないこともないが、反面、あの苦労は私にとっては貴重な貴重な体験でもあった。私にとって大きな人生訓となり、困難にであった時、当時を偲んで「何クソッ」という精神を植え付けてくれた。寧ろ今となればあの苦難の経験に感謝している。それにつけても運悪く凍土に眠り、土に還った幾多の戦友を偲び合掌するのみである。

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      三、復員後の生活   
 

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    七年ぶりの就農

 馬は相変らず二頭飼っていた。農作業は、田うない・代掻き・田植え・除草・稲刈り等全く以前と同じ作業で、その都度人頼みに大変な苦労をした。栗の豊作の時など、皆栗広いに勢を出すため、なかなか人手がなく、したがって収穫作業が遅れがちになった。

 家では、私が兵隊に行くまでは、村の方の旧田一町歩余、トーベエ(藤兵衛)畑、四町余反を耕作していたが、出征中は人手がなくなり、旧田は他人に貸してあった。ところが、終戦後の農地解放令により、村内の一町歩余がそれぞれ小作人の手に渡ってしまった。結果的には祖父が日夜努力して開田した二町七反余だけとなってしまった。祖父はまるで悪夢を見ているようで、その落胆ぶり甚だしく、誠に気の毒だった。

 時世は又、海外からの引揚者等で、国全体が食糧不足となり、全国各地で開墾・開拓入植が盛んに行われ、現在のスキー場一帯、旧楢山一帯それに駒止湿原周辺等が買収され、針生でも開墾事業が盛んに実施された。この時、山林も二足三文で買収された。しかしこれは一時期のことで、食糧が出廻るようになり、物資も安定供給が確保されるようになると、開墾をする人はいなくなった。時の流れであってみればいたし方のない事ではあるが、惜しむらくはこの開墾の推進で駒止湿原のブナ林が伐採されたことである。湿原の周りに、 あのブナの大木が残っていれば湿原の景観も一層重みを増していたのではなかろうか。
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   祖父の石碑建立

 二十八年八月、祖父は脳内出血のため急逝してしまった。 昭和三十年、祖父の三回忌を迎えるに当り、石塔を立てる計画をした。祖父子の私は、祖父の苦労話をよく聞き、また学校を卒業すると、山で一緒に寝泊まりしながら、新田起こし、植林、刈り払い等いつも一緒に働き、仕事を躾られて来た。だから、祖父の苦労に報えるためにもと思い、亡き延石屋に相談し 石塔の竿石は尺三寸面に決め、それに似合う土台石・芝石等を山取りし、祖父の石碑の分は、竿石と台石を黒御影にし、若松七日町の原田石材店に延兄と行き、よく説明して打ち合わせてきた。竿石の字は金井沢出身の書道 家室井辰蔵先生に依頼した。辰蔵先生はその頃「鶴堂」と号していた。それやこれやで何回となく若松へ足を運んだ。当時はまだ、輸入石材などはなかった。ついでに先祖代々の墓石も建てたが、芝石は長いのを利用し、二基の墓石にまたがり、傾かぬよう基礎もシッカリ造った。十分に念を入れた私自慢の石碑で、私の祖父への感謝の現れとして自らも満足出来るものであった。

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     スキー民宿へ転身

五十七年針生台鞍山スキー場がオープン。五十八年これを機に旧母屋を取り壊し、総二階建て間口一二軒間半、奥行き五間の民宿営業用に建て替えた。二階廊下は一間幅とした。建物の構想は斎藤建工が担当した。デザイン 等、外観もよく、苦心の建築で、宣伝にも大いに力を入れ努力した。 家の建て替えに際して忘れられない事がある。そらは昭和五十八年旧家屋を取り壊す時、床の間の縁ブチの裏側に「越後国西蒲原郡五 十嵐村五十嵐  渡部永松  作是  明治三十六年旧六月」と記してあった。(今でも記念にとってある)祖父は二回の類焼に遭い、止むなく夏普請となったが、家材の搬出で、材が水を含んでいるので、赤ベコに大黒柱・梁など付けると、重いとて涙を流して泣いた、とよく話していた。夏普請は大変な苦労だったと思う。  大工は殆ど越後から来ていたらしい。西蒲原郡五十嵐村とは、弥彦神社の付近らしいが、随分と遠くから来たものだと思う。

 もともとこの家の建て替え構想は、哲が百姓の後継者になると云っても、世は休耕・減反の時代であり、若者に何か夢と希望を持たせなければと考えた末、スキー場がオープンしたのだからと、農業を継ぎながら生きがいのある人生設計が出来るよう、思い切って発想したものである。哲は農業には余り関心を示さないが、スキーシーズンともなると楽しそうに一生懸命力を入れ、客の予約受け付けなど楽しそうに頑張っている。

 農業の時代はすでに過ぎ去ってしまったのであろうか。特に当地方のような山間地では、年毎に荒れていく田畑が目に付く。時代の流れには逆らうことが出来ない。民宿で頑張り、何とか生活をして行ければまあまあであろう。祖父が寝る間も惜しんで汗水を流し、何年も何年もかかって新田造りをした時代を思うと、忍びがたいことではあるが、時代の流れに添って生きてゆくしかない。一人ッ子の孫、純も成長し、今では元気で四年生になっている。孫と一緒に生活出来ることに限りない幸せを感じる。ありがたいと思う。

 世の中すべてが変わった。嫁のき手がなく、中国・フィリッピンから嫁を迎えるという予 想だにしなかった時代となった。私は全責任を哲に譲ったので、ノンビリと気の向くままに好きな林の手入れなどして日々を送れることに感謝している。近年は体力が衰え、足腰も思うようにならなくなったが、生きていら れるうちは真似事のようなことでもいいから仕事を続けたいと念じている。

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       四 、私の老後 
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植林への情熱  

 私は、高等科卒業と同時に家業の農業に就き、祖父とトーベエ畑で寝泊まりし、植林や山林の手入れなど祖父との生活が多かった。 だから、父の印象よりも祖父との思い出の方が強く残っている。祖父の躾で自然と祖父流に、農業のかたわら、造林に励んむようになった。

 祖父の遺した山林の価値は偉大なものであった。精米所・車庫、そしてこの民宿用の家も、その建設資金は皆、祖父の丹精した山林を売却した金だった。しかし、それだけでは足りず、資金借入もしたが、山林という元になる資金の見通しがあって、何とか現在の姿を実現できたのである。私は、山の木を切れば、翌年には、どんなに忙しい中でも、必ず杉などを植林したが、これは子孫として当然の義務と心得ているからである。林の手入 れも、どんなに忙しくても、盗み手間を見つけては夢中になってやってきた。今では植えた木は、皆見事に成長し、手入れを要するのは、木陰で成長が遅れている一部分だけとなった。

 腰痛で悩んだ平成二年の春、無理を承知で、 気力だけで林立てをし、ついにダウンしてしまい、八月二十八日福島市の田島整形外科病院で手術するハメになった。シビレだけは今でも残っている。

 腰痛がおきた年から農作業が全く出来なくなり、息子哲に総てを託した。足も意のままにならなかったが、それでも林の手入れと、刈り払いは止められず、大木の下もキレイに刈り払い、枝打ちも、九尺梯子で届くところまでは、殆んど下ろした。しかし、今では足元が危ないので高いところの枝打ちはもう出来なくなった。転ぶ必要もないような所で、思いがけなく転倒することも度々あるので、傾斜地での作業はダメになってしまった。自 分で思っている以上に体が老化しているとしみじみ感じている。植林地の刈り払いは、今は亡きキチも刈り払い機械でよく手伝ってくれた。あの当時が懐かしい。

 昨今は外材に押され、材木が全く値なしの現状ではあるが、植林しておけば、孫の純が 成長して大きくなる頃、また役に立つかも知れないが、現在の私には、材の直段などは全く関係ない。先祖の残してくれた林や、自分が植えた木がスクスク育つのを見ながら、わが子の成長が楽しみであったような気持ちで、林の手入れをすることが今の生きがいなのである。

 祖父の遺した山林のお蔭で今の生活が成り立っていることを思えば、只感謝の念で一杯である。祖父あっての私達の生活である。祖父が昔よく言っていた「俺は、死んでも働いている」と。将にそのとおりで、祖父の手になる林が今なお成長しているのは、祖父が今なお働いていることと同じだ。

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  思い出の中に…

 私は、前にも書いたが平成三年二月頃より激しい腰痛に悩まされ、思うように林の手入れが出来なくなった。そのとき、トーベエ畑の小屋の手入した鉈・鋸・刈払い機などの道具を眺めては働けない自分にガッカリし、ひとり残念無念の涙を流した。

 これを書いていても当時の残念の思いが込み上げ、一人涙ぐむ始末である。 このような健康状態なので退屈しのぎに、 以前から関心のあった村内の石塔の年号など調べはじめた。二〇〇年、三〇〇年前の昔を偲ぶ時、昔の人は信仰心が かったことに驚く。貧しいながらも素朴な人々が、心の依りどころを神仏に託して生きたことを痛切に感じた。墓石に刻まれた昔を想像すると昔の人から話しかけられているような気持ちになり、一人密かに楽しむようになった。石塔は火災等には無縁で静かに佇んでいる。

 地球が誕生して二百億年、人類が生活し始めて数十万年。この歴史を思えば、個人の一生などは空気中のチリより短い生涯である。人間は、長くて九十年そこそこの人生で土に還える。今、八十歳を迎え、自分の一生を振り返ると亡くなった人達とのつながりの中で思議な感情が湧いてくる。人は生まれ死んできた。その繰り返しである。今、私が在り、子供達、孫も在るが、彼らもそして子孫もまた同じことを繰り返すことであろう。先祖もそうやってきたのである。そう思えば、死に 行く人間は可哀相とも感じるが、これは、生きているものすべての宿命である。

 特に今、私にとって、自分の父母、祖父母、 先祖は自分の思い出の中にあり、強くつながっているように感じる。「思い出の中に生きている」ということばがあるが、まさに今までかかわった人達との中で、話し、教えてもらったりしたことなどが、自分の身についているということはそれらの人達が共に生きているということではないだろうか。

 祖父が植林をしたときその木の成長した姿を思い浮かべ、「俺は、死んでも働いている」と話したこと。私の出征中、父は私とはもう生きて逢えないと、精米所や土蔵の壁の至るところに私宛に小さな文字で仕事の段取りや注意を書いておいてくれたこと。それらは祖父や父が今も「梅久、○○…だぞ」と語りかけてくれていることを感じる。まさに今も先祖は私の中に生きているのである。

 まもなく去り行く私と亡くなった妻キチを、 私の子供達や孫はどう思い出すのだろうか。
私もキチも彼らの中に生きていることを思うとき、ほのぼのとした温かい気持ちになる。
子孫の平安を祈るとともに私を育て見守ってくれた故郷の山や川、出会った多くの人達に心から感謝する次第である。

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