父の写真


 








漫画家の娘、伸子の描いた父


父(梅久)は、私たち家族も含め何かしらあると、必ず写真を撮ってくれました。私たち子どもの成長を・・・一般的家庭より、その写真の枚数は多いような気がします。 それはもしかすると
すごい枚数かもしれません。
いつか整理して見たいと思います。
   子(哲)記

  
故郷「駒止のふもと」に生きてより

 私は大正九年二月二十六日 父梅義、母タケの次男としてこの世に生を享けた。後で聞いたことだが、長男梅雄は生後間もなく亡くなった由である。

 私の、幼い頃の最も古い記憶は、大正十二年九月の東京大震災の時、火棚のカギ竿がブ ランブランと揺れ、神棚からダルマが転げ落ちた時、祖母マツオがオメエ(家の一番広い部屋)で「万歳楽万歳楽桑原桑原」と唱えている姿が忘れられない。 姉マツヲと父母に連れられ、七ヶ嶽の中腹にある笹葺きで周りの囲いも笹でできた杓子小屋に行ったことがある。小屋の中には、細長いヰロリがあり、祖父・父・初義兄の三人で暖をとっていた。水も樋よりチョロチョロ流れていた。 後から聞いた話だが、杓子の値段は安かった。朝暗いうちから、夜はランプの下で十時、十一時までの夜業が当たり前のことだったらしい。ヰロリの上には大きな棚があり、暖をとりながら荒型を乾燥していた。
         (中略)

 
七年ぶりの就農

 馬は相変らず二頭飼っていた。農作業は、田うない・代掻き・田植え・除草・稲刈り等全く以前と同じ作業で、その都度人頼みに大変な苦労をした。栗の豊作の時など、皆栗広いに勢を出すため、なかなか人手がなく、したがって収穫作業が遅れがちになった。

 家では、私が兵隊に行くまでは、村の方の旧田一町歩余、トーベエ(藤兵衛)畑、四町余反を耕作していたが、出征中は人手がなくなり、旧田は他人に貸してあった。ところが、終戦後の農地解放令により、村内の一町歩余がそれぞれ小作人の手に渡ってしまった。結果的には祖父が日夜努力して開田した二町七反余だけとなってしまった。祖父はまるで悪夢を見ているようで、その落胆ぶり甚だしく、誠に気の毒だった。

 時世は又、海外からの引揚者等で、国全体が食糧不足となり、全国各地で開墾・開拓入植が盛んに行われ、現在のスキー場一帯、旧楢山一帯それに駒止湿原周辺等が買収され、針生でも開墾事業が盛んに実施された。この時、山林も二足三文で買収された。しかしこれは一時期のことで、食糧が出廻るようになり、物資も安定供給が確保されるようになると、開墾をする人はいなくなった。時の流れであってみればいたし方のない事ではあるが、惜しむらくはこの開墾の推進で駒止湿原のブナ林が伐採されたことである。湿原の周りに、 あのブナの大木が残っていれば湿原の景観も一層重みを増していたのではなかろうか。
           
           
(中略)

 地球が誕生して二百億年、人類が生活し始めて数十万年。この歴史を思えば、個人の一生などは空気中のチリより短い生涯である。人間は、長くて九十年そこそこの人生で土に還える。今、八十歳を迎え、自分の一生を振り返ると亡くなった人達とのつながりの中で思議な感情が湧いてくる。人は生まれ死んできた。その繰り返しである。今、私が在り、子供達、孫も在るが、彼らもそして子孫もまた同じことを繰り返すことであろう。先祖もそうやってきたのである。そう思えば、死に 行く人間は可哀相とも感じるが、これは、生きているものすべての宿命である。
 


    その後の父について 
                     
子(哲)記
         
 
父はこの受賞の2年後の夏、ある病で入院、その年の12月に一旦は退院したが1月中旬再び入院、2003年2月8日午後5時15分この世を去った。 私にとって、その6ヶ月間、父とあんなに長い時間いれたことが、今思うと嬉しくてありがたい。 と言いながらその時のことを思うと涙が流れる。 それまで、いつも同じ屋根の下にいるのに、いつもの二人ならそんなに顔を合わす時間なんて無かった、そんなに話す時間なんて無かったから・・・・親子ってみんなこんなもんじゃないかなぁ・・・・などと言い訳しながら生きてきたのに・・・・その父と一緒にいれた時間が恋しい。

 
父の自伝の中の最後に「・・・まもなく去り行く私と亡くなった妻キチを、 私の子供達や孫はどう思い出すのだろうか。 私もキチも彼らの中に生きていることを思うとき、ほのぼのとした温かい気持ちになる。 子孫の平安を祈るとともに私を育て見守ってくれた故郷の山や川、出会った多くの人達に心から感謝する次第である」とある。 まさに今、私は父が言ってたとおり、父のことを強く思い出している。80年と少しの人生を生きた父、23年前、63年と少しの人生を終えた母キチ、こうして思い出すことができる自分が嬉しい。今でも私の中に二人は強く生きている。そしてその思いは時が立てば立つほど強くなっていくのはどうしてだろう・・・。        
               
2007年春 子(哲)記