御苦楽園と水戸部弥作氏について
当園は、昭和初期の不況下に、失業対策をかねて、築園されたものである。この事業には、一日に50人から 300人ほどの人夫を使い、夏冬とおして8年の歳月を要した。園内には、県内県外から銘石、銘木を集め、とくに子孫には財産よりも精神の相続をと、自己の青年時代からの修養の資とした処世訓、古今の金言の数々を柱石に刻んだ。そこで、この庭園を、人生の苦しみと楽しみを盛った庭園という意味で、 「御苦楽園」 と名づけた。
また、訪れる人々に、多少とも心に益するところがあれば幸いと、自ら 「社会大学」 とも呼んでいた。
祖父は、昭和17年1月8日に、70才でこの世を去ったが、各方面より強い要望が寄せられ、昭和40年から公開するにいたった。 当園設立者、亡祖父水戸部弥作は、次男として生まれた。生来、剛穀で独立心が強く、幾多の苦労を重ねて大いに発展したが、長兄に死なれ、家督を相続することになった。
実家に戻ってから三年後、酒造行 (山形正宗) に着手し、創業十余年で年五千石を造り、地方の醸造家として世に知られるにいたった。その後、天童駅前に醤油醸造工場(天水醤油) を創立し、近代的な設備や学術を応用し、約四千石を出すほどになった。
しかし、自生活にはきわめて厳しく、その反面、学校教育および各種団体の育成にはきわめて熱心で、その尽力は人の目を驚かすものがあった。50才の春、決するところがあり、当地に隠居した。
|