by Satoshi Yuda  since 2007.04 

  昭和初期を生きた水戸部弥作の精神が脈うつ庭園

  私が山形県、天童市を訪れたのは、今から13年前の9月である。 私は普通の観光に来ていただけだった。 しかし、この御苦楽園に一歩踏み込んだ瞬間、それまでにはなかった新鮮な感動と喜びが込み上げてきたことを覚えている。 一般的に有名な人、歴史上の人物の生まれた町であった場合、観光のために「○○○館」と銘打って、その人物の歩みや業績、遺品や写真などを年表のようにして紹介しているのが普通である。 しかしここは違っていた。 御苦楽園を訪れる人の中には、その素晴らしい庭園に、感嘆の声をあげ、こんな立派な庭園、さぞ沢山のお金がかかっただろうなとか言いながら、ただ「見ていく」だけの人もいるかもしれません。 一般的な観光客がそうであるように・・・。  しかしここは違っていた。 まさに   
              
 昭和初期を生きた水戸部弥作という人物の精神が脈うってる庭園だった。  

 後世への、「教え」「教訓」「精神の伝授」「思想の遺伝」「生き方のバイブル」「人生論」「一度、富を得た者が選択するゴールとは」「人生の羅針盤」「人生ベクトル」「愛」「人々の幸福を願う者」「人々の味方」・・・・・・などなど、その中には、孟子?孔子?古代中国の哲学者たちの教えからくるものであろうが、水戸部弥作氏は、自分の生きた人生の中での様々な体験から、たどり着いた思想、そして言葉、そしてその精神を後世の人々に伝えようとする、水戸部家の人々、子孫たち。 今、日本人に何が必要なのか、人類に必要なものは何なのか、何千ページにも及ぶ哲学書、あるいはあの聖書なのだろうか。 シンプルでありその短い言葉の中にある人生の意味、人生の教え、生きる方向性、生きるエネルギーの化学反応をさそう触媒のように、生きるエンジンの新たなる加速装置(ターボチャージャー)のように、いや失礼、彼はこんな無機質な形容は嫌うでしょうね。 後世に生きる我々が、幸せな人生、充実した人生を送ってくれるようにと、その庭園とともに彼の教えの言葉「金言集」によりエールを送っているように思うのだ。 彼のような人が、この東北にいたことを同じ東北人として誇りに思います。 岩手には私の好きな宮沢賢治もいます。二人の生き方は違っていたかもしれないけれど、

   人々の幸せを願い続けた人生だったことだけは共通している。 

 これから彼の「教え」に少しでも近づけるよう、私は生きていきます。 そういえば、その感動から何年かして、御苦楽園に電話をしたことがありました。あの時、女性の方に、庭園を案内されながら、石碑に刻まれた弥作氏の精神、教えを楽しく分かりやすく説明してくれたことへの感謝と、弥作氏の精神を後世の私たちに伝え続けている水戸部家の人々の姿に感動したことを伝えました。 そして「金言集」を2冊送って欲しい、ホームページを作りたいからといったら、金言集とともにパンフレットや絵葉書なども一緒に送ってくれました。「楽しみにしています」とそえられた言葉を思い出します。 その後すぐに、御苦楽園のパンフレットを元に私の小さなホームページ(オリオン)にアップしたこともありましたが、そうこうしているうちに結局約束がはたされないまま10年が経ってしましました。お詫びするしだいです。 私もけっこうな歳になりました。人生の折り返し地点にたどりついたようなおかしな気分、今までになかった気分・・・そんな気分のまま、そんな自分の人生をみつめていたら、彼、水戸部弥作という人間の存在が大きく膨らんできたのです。

    今を生きる日本人に必要な思想、生き方はこの「金言集」の中にすべてあると私は信じている。 

決して何万ページにも及ぶ哲学書や、心理学、教育学・・・ではない。 今ここに10年前の「ホームページ作ったらアドレス教えます」の約束を守るため、2007年春、このページを作り、そのアドレスを水戸部家に送りたいと思います。  彼のその生きた姿は後世の我々のお手本として、目標として、私たちの中に輝き続けるであろう。  彼の精神や教えを、幸せを願う人々のために、このページをささげます。 

    金言集は文字でできています。効果のほどは?と訪ねられます。  

効果のほど?やはりご自分で御苦楽園に行き、その目、その耳、つまり子孫である水戸部家の人の声で、直接案内してもらうことをお勧めします。 
その時、その優しく心地よい声とともに、あなたの心の中に深く水戸部弥作の精神が染み込んでくることを感じるでしょう。

    彼の精神、彼の教えを人々に伝え続ける水戸部家の人々に会うために、ぜひ御苦楽園に行ってみてはいかがでしょうか。                                                                                                      

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水戸部弥作氏について



                    御苦楽園と水戸部弥作氏について


 当園は、昭和初期の不況下に、失業対策をかねて、築園されたものである。この事業には、一日に50人から 300人ほどの人夫を使い、夏冬とおして8年の歳月を要した。園内には、県内県外から銘石、銘木を集め、とくに子孫には財産よりも精神の相続をと、自己の青年時代からの修養の資とした処世訓、古今の金言の数々を柱石に刻んだ。そこで、この庭園を、人生の苦しみと楽しみを盛った庭園という意味で、 「御苦楽園」 と名づけた。

 また、訪れる人々に、多少とも心に益するところがあれば幸いと、自ら 「社会大学」 とも呼んでいた。
 祖父は、昭和17年1月8日に、70才でこの世を去ったが、各方面より強い要望が寄せられ、昭和40年から公開するにいたった。 当園設立者、亡祖父水戸部弥作は、次男として生まれた。生来、剛穀で独立心が強く、幾多の苦労を重ねて大いに発展したが、長兄に死なれ、家督を相続することになった。
 実家に戻ってから三年後、酒造行 (山形正宗) に着手し、創業十余年で年五千石を造り、地方の醸造家として世に知られるにいたった。その後、天童駅前に醤油醸造工場(天水醤油) を創立し、近代的な設備や学術を応用し、約四千石を出すほどになった。
 しかし、自生活にはきわめて厳しく、その反面、学校教育および各種団体の育成にはきわめて熱心で、その尽力は人の目を驚かすものがあった。50才の春、決するところがあり、当地に隠居した。